八幡原飛行場業務日誌

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ACADEMY 72 A6M5c (7)

写真を撮っていなかったので
いきなり全体塗装した状態
これが、今のところの状態
つごうがあって、ほかの機種を作っている
日の丸は、デカールで行くか
塗装にするか、迷っている
なにしろ以前ACADEMYのP-40Bのデカール
固くて固くてなじまなくて、たいへんだった

 

 

ACADEMY 72 A6M5c (6)

おおまかな組立をしたところの写真です

ロケット弾用のレールのサイズや
位置は、先に書いたように「だいたい」です
ちょっと大きすぎに感じています
目立っていいか? という感じです

細かく言うと、スジボリの間違いかな?
というところもありますが、
そのままで作ることにしました

 

 

ACADEMY 72 A6M5c (5)

どうも、主翼下面のパーツと、胴体後部とで、うまくやらないと
段がでそうで、調整のため、いろいろと胴体部分にランナー切り出し
の部材を接着した  ここらへんが古いACADEMYの甘いところかな

主翼下面にレールを固定して、主翼の上面と接着した
レールの固定位置の正確なところは資料が無いので
「だいたい」でやっつけた

 

ACADEMY 72 A6M5c (4)

箱の完成写真には、ロケット弾は、主翼にある小型のパイロン?に
そのまま4発ぶら下げられている。  手持ちの資料と
某メーカー(複数)のキットでは、発射するレールが存在する
戦争末期のゴタゴタで、たぶん試行錯誤があっと思われる
どの機体で、ロケット弾を搭載したのか、おそらくは
正確な資料は存在しないと思われる。なので、プラモとしては
どう作っても、確証がないし、否定する材料もないと思う
ここは、想像をめぐらして、厚木のこの機体で、レール発射の
ロケット弾で、東京にやってくるB-29を狙ったと
想像することにした
レールの形は、手持ちの本に挿絵があった
レールのついているキットの手持ちもないし、キットの完成写真が
ネット上にあるので、そこから推測してサイズはきめた
素材は、シンチュウで、シンチュウ線をたたいて、平たくして
またたたいて、できるだけHの形に近づくようにしたつもりだが
まだまだだった
支柱をはんだ付けして、主翼下面の穴をあけて、接着するという
ことにした。そして、搭載するのは、左右一発づつで、合計二発

手持ちの資料でも、ネット探しても、ロケット弾搭載の写真は
見つからない。極秘のものだったのだろう
亡父は、ロケット弾の話はしなかったなあ
知ってて言わなかったのか? 厚木基地では運用しなかったのか?
今となっては尋ねようもない

 

ACADEMY 72 A6M5c (3)

わたしがこどものころ、1970年代から
1980年代の模型雑誌には、当時の零戦のキットは、
機首まわりが違うと、強く言われていた
日本人なので、零戦への強い愛があり
ちょっとでも違和感があれば、許せないという
気持ちが強いのもあるのだろう

ここで、ACADEMYのこの零戦だが
決定的に違うと思ったのは
カウリングだ
カウリングは、三分割になっていて
注意深く組立、接着したのだが
とにかく違う
妙に角ばっていて
五二型系列とは違い
どちらかというと二一型に近いような?
オリジナルの写真を撮るのを忘れたようで
デジカメとスマートフォンのデータを
いまさら見直したが、なかった
しかたないので、なんどもなんどもパテを
盛った状態の写真にするが
結論から言えば
パテを盛って削っても、なかなか思う形にはならない
ということで、諦めた
ACADEMYの零戦はこういうものだ
彼らの零戦に対する感情がどうなのかわからないが
これなのだ  と思った

 

 

ACADEMY 72 A6M5c (2)

コックピットは、シートベルトを追加したくらいで
手を入れていない
計器も細かくは塗分けは、自分の能力では
このくらいだ
ここには出てこないが、13ミリ機銃の
後部がコックピット内にあるので
あとで、胴体側に追加した

 

 

ACADEMY 72 A6M5c (1)

2022年秋からスターしたのだが、途中の写真が少ない
なのでweblog向きではない

まず、このACADEMY 零戦のキットを
比較してはいけないと思いつつ
タミヤやハセガワと比較してしまう
すでにそちらを作っているので

組立説明書は、英語があるので、なんとかなる
全部ハングルだとまったく読めない。
まああそれはいいとして
塗装の色の説明があまりにも少ない
細かい部分がほとんど無い
全体塗装図で、IJN GreenとLight Gray とは雑な感じ
ふたつのマーキング指定があり
1945年6月 鹿児島の谷水竹雄上飛曹  03-09 の撃墜マークの
有名なものと
1945年7月の厚木基地のヨD-102 のものがある
前者は中島製の塗装塗り分けで
後者は、三菱製の塗装塗り分けで説明されていたが
私の手持ちの資料では、後者の厚木基地のヨD-102は
中島製の塗装塗分けとなっている
手持ちの資料でいくことにした

なお、私の亡父は、海軍の整備兵で
厚木基地終戦を迎えた
そして、マッカーサーが来るからと、三日前に急に
通達があり、退去となった
ハンモックひとつを持って、とりあえず郷里に向かった
ということを何度も聞いた
私が小さい頃は、その海軍のハンモックで昼寝をしていたと
聞かされている
なので、1945年7月の厚木基地のヨD-102 の機体と
することにした
父はその機体を見ている可能性は高い
終戦間近は、戦闘機も少なくて、父のような
下っ端の整備兵がさわれる戦闘機は無かったと聞いた

制作途中の写真がすくないので
いきなりの、アンテナ柱の金属化の写真
折れるのがいやで、ほとんどのアンテナ柱は
金属にしている
いつものやりかたで、機体の内部に
ランナーで固定部を作って
手持ちのシンチュウ線をたたいてつぶして
それから削って形を作る
慣れているし、ある程度たたいた材料は
作ってあるため、あまり手間はかからない

組立説明書についてだが
コックピットを含めて、
各部品の塗装説明があまりにも少ない
たぶん、初心者は、塗装できない
私は零戦は詳しいわけではないが
資料を何冊か買ったので、それをもとに塗装する
私が若いころ、1970年代や1980年代とは
情報量が増えたので、あのころの常識?で
考えてはいけない
あのころ、グンゼのレベルカラーの上面色は
海軍機色と陸軍機色となっていたものなあ
それで、零戦だと海軍機色で塗装すればと
思っていたなあ

初めて零戦に塗装したとき、まちがって
陸軍機色を塗装して、あとで....あれれ
ほかの人と違うと  気が付いた
でも、中島塗装とすれば
間違ってはいないのかもしれないが
昔の話だ